2020年06月01日

里地里山文化論〈上〉〈下〉養父志乃夫

上巻では、里地里山が日本人の生活とともにどのように発展してきたかを辿っている。下巻では、昭和20〜30年代の暮らしについての全国18地区の調査を報告している。

縄文中期の温暖期には焼畑耕作が始まり、これによって生じた二次植生の落葉広葉樹が森林面積の12%に達していた。カタクリなどの春植物は、落葉広葉樹の若葉が日光を遮るまでの1か月の間に繁茂するもので、人間によって利用、維持されてきた雑木林で生き延びてきた。

ヒガンバナは縄文晩期に稲作とともに渡来した。鱗茎にはアルカロイドが含まれるためにモグラ除けになり、水で晒せば救荒植物になった。

2200年前から、低湿地に自生するハンノキの花粉が減少し、イネ科やヨモギ属の花粉が増加した。近畿地方では、500年頃からマツ属とイネ科の花粉が増加しており、森林の伐採と二次林の拡大、稲作が広がった。関東地方でも、500年頃からアカガシなどの照葉樹林の花粉が減少し、アカマツが増加した。

江戸時代から第二次世界大戦前まで、林野面積の10〜15%、250〜400万haが刈敷や牛馬の餌を得るための草山だった。牛馬耕の普及に伴う堆厩肥の導入や、薪炭材需要が増大した明治以降、草刈山は雑木林に変わっていった。明治30(1901)年以降、木炭の需要が増大したため、全国各地でクヌギなどの広葉樹が植林され、昭和30年までに42万ha(森林面積の2.2%)に及んだ。日露戦争後、ロシアから安価な大豆が輸入されて、その粕が有機肥料として販売され、第一次大戦後は、化学工業の発展で安価な硫安、過リン酸石灰などが出回り始めた。明治40(1911)年に第二次森林法によって林野への火入れが規制されたため、草山が減少していった。里山の草地の割合は、大正11年を境に減少し始めた。

刈敷や落葉落枝、牛糞や馬糞堆肥、人糞尿を発酵させた下肥の利用は、昭和20〜30年代まで続いた。昭和20〜30年代に1戸当たり使用された土地面積は、田畑0.9ha、燃料山1.1ha。薪炭は、プロパンガスが普及し始めた昭和30年半ばから減少し始め、40年代半ば過ぎにはほとんど使われなくなった。竿や雨樋、筒、屋根葺き材などとして使われた竹も、プラスチックが普及した昭和30年半ばから激減した。里地里山の屋敷は、昭和40年初めまで茅葺き屋根が多数を占めた。

殺虫剤、殺菌剤の使用は、昭和20年代末から30年代初めに、除草剤は、昭和30年代半ばから開始された。除草剤、殺虫剤を使い始めると、水田のタニシやドジョウが死滅した。

昭和40年代から大型機械で作業を効率化させるための区画の拡大を図ったため、畦が消失し、両生類・爬虫類、昆虫の生息地が失われた。用水路は三面コンクリートや地下パイプラインになり、稲刈り後の排水路は水無になったため、カエルやトカゲ、ヘビ、バッタ、コオロギなどの生息地が失われた。

昭和30年代半ばから耕耘機が普及し、農耕牛馬が消滅して、牛糞などの堆厩肥に代わる化成肥料が普及した。農耕牛馬の消滅によって、草刈り場が不要となり、昭和34年の120万haから平成17年の39万haへ減少した。その結果、蝶類などの昆虫の生息地が失われた。

昭和40年代前半から田植機が導入されると、苗はビニールハウス内の育苗箱で育てられるようになり、水苗代が不要になって、水田は収穫前後から翌年の田植え直前まで乾燥状態になった。その結果、カエルやトンボの産卵環境が減少した。さらに、昭和50年代初めからはコンバインが普及し、8月下旬には田の土が完全に乾燥するようになった。

里山が放棄されたことにより、昭和30年代後半からイノシシ、シカ、サル、ハクビシン、アライグマなどによる被害が広がった。

里地里山文化論〈上〉循環型社会の基層と形成 - 養父 志乃夫
里地里山文化論〈上〉循環型社会の基層と形成 - 養父 志乃夫

里地里山文化論〈下〉循環型社会の暮らしと生態系 - 養父 志乃夫
里地里山文化論〈下〉循環型社会の暮らしと生態系 - 養父 志乃夫
小浜崇宏 | Comment(0) | 生態系 | このブログの読者になる
2018年12月20日

『五感経営 産廃会社の娘、逆転を語る』石坂典子

この本を見つけたのは偶然だった。副題の「産廃会社の娘」という組み合わせに目を引き、「地域に愛されるリサイクル会社に生まれ変わった」の紹介文で関心を持ち、本を手に取って、20年ほど前に所沢で起きたダイオキシン問題で矢面に立たされた会社と知って鳥肌が立った。

著者は、ネイルサロンの開業資金を貯めるまでの腰掛のつもりで、父親が経営する石坂産業に入社した。最初は事務員だったが、仕事に熱意を抱いた働きぶりを評価されて、営業部隊の統括を任されるようになった。1999年に、所沢市で生産された農産物から高濃度のダイオキシンが検出されたとのニュースがテレビで流されたため、地元の野菜が売れなくなって、産廃会社に怒りが向けられた。2001年には、会社の産業廃棄物処理業の許可を取り消すことを求める行政訴訟を起こされた。ごみを捨てる時代を終わりにして、リサイクルする時代にしなければならないという父親の思いや、産廃処理に携わる職人たちのおかげで育ってきたとの自らの思いから、2002年に自らを社長にしてもらうことを直談判して就任した。

2002年、地域に必要とされる会社にするために、売り上げの7割を頼っていた焼却事業から撤退し、解体資材の減量化とリサイクル事業に注力することにした。2003年にISO14001やISO9001を取得。巨額の投資と引き換えにして、減量化・再資源化率95%を達成した。業界の平均は85%だったため、同業者の15%分の産廃も引き受けるようになった。2011年に日立建機と共同開発した電動式のショベルカーを導入したことによって、二酸化炭素の排出量を大幅に減らせるようになり、排出権クレジットを売却することができるようになった。2015年には、廃棄物を材料にした建設資材が公的機関の認定を受けて、全国で使えるようになり、減量化・再資源化率を100%に近づけることができるようになった(現在、ホームページには「98%を達成」とある)。

2008年には、屋内型プラントの内部を見てもらうために、見学用の通路を新設して、工場見学を始めた。見学者が増えて褒められることによって、社員も自発的、意欲的に仕事に取り組むように変わった。今は、年間1万人以上の見学者が訪れている。以前から行っていた近所の道路の清掃を広げて、くぬぎ山地区の雑木林の整備も始めた。この活動によって地元の評判がよくなり、2012年には日本生態系協会のハビタット評価認証制度(JHEP)でAAAランクの認証を取得した。森林を手入れして集めた枯葉を堆肥にしたものを用いた農業も始め、農産物を加工して販売する6次産業も展開した。森林には、子供たちのためのアスレチックパークや体験農園などをつくり、2014年に里山環境教育フィールド三富今昔村と名付けて一般開放した。ただし、森林保全にかかるコストは毎年数千万円の持ち出しで、6次産業も赤字。

著者は、今後のミッションのひとつとして、里山の保全・再生を単独で採算のとれる事業に変えるために、環境教育の事業化を考えている。すでに、旅行代理店と提携した体験型ツアーを企画しており、海外の機関と提携して環境教育プログラムの開発に着手している。これによって、産廃処理と里山保全の現場を持ち、環境教育に取り組む会社としてブランド化しようとしている。

ダイオキシン問題という逆境があったとはいえ、強い理念を持ち、その取り組みを次々に実現させていく実績は見事だ。その行動を背後でどっしりと支えたのであろう父親の姿も文面から伝わってくる。親子のドキュメンタリーとしても読める内容になっている。

石坂産業
三富今昔村

五感経営 産廃会社の娘、逆転を語る五感経営 産廃会社の娘、逆転を語る
石坂 典子 / 日経BP社 (2016-09-16)
タグ:CSR 廃棄物
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2018年11月28日

『「定常経済」は可能だ!』ハーマン・デイリー 岩波ブックレット

対談形式で60ページ余りのブックレットだが、聞き手が細かい点まで丁寧に質問しているため、デイリーが考える経済成長の問題点や定常経済の姿がわかりやすく説明されている。

私たちの世界は、「空いている世界」から「いっぱいの世界」に変わった。「空いている世界」の制約要因は人工資本だったが、「いっぱいの世界」の制約要因は残っている自然資本になる。漁業では、かつての制約要因は漁船だったが、今では海の中の魚の数とその再生能力になっている。原油生産では、かつての制約要因は掘削装置と汲み上げポンプだったが、今では地下に残る原油量やCO2を吸収する大気の能力になっている。

今では、環境問題を含む経済の成長のための費用の方が、生み出される便益よりも大きくなっている。財やサービスを新たに1単位生産するのに必要な費用である限界費用は、GDPが成長するごとに増加するが、1単位生産することによって得られる限界便益は減少する。その理由は、社会は最も切迫したニーズから満たしていき、最も利用しやすい資源から用いるが、次第にニーズの低いものを対象とし、利用しにくくコストの高い資源を利用することになるため。GDPの中身を費用と便益に分けて、環境汚染の経済的な損失を考慮に入れた持続可能経済福祉指標(ISEW)や、それに人の幸福に影響を与える項目を加えた真の進歩指標(GPI)は、アメリカや他の先進国では1980年頃から横ばいになっている。また、様々な研究において、一人当たりのGDPが年間2万ドルになると自己評価による幸福度の上昇が止まることが示されている。充足ラインまでは実質所得が幸福度の重要要因だが、所得が高い国々では、人間関係や社会の安定性、信頼、公正などが幸福の決定要因となる。すなわち、GDPの成長は幸福度を増やさない一方で、枯渇、汚染、ストレスなどのコストを増大させている。

アダム・スミス、J.S.ミル、J.M.ケインズといった古典派経済学者たちは、労働や土地によって価値が決まるという客観的価値論をとり、将来は定常経済に向かっていくと考えていた。1870年代に新古典派経済学が台頭して、効用や満足をどう感じるかによって価値が決まるという主観的価値論をとるようになり、資源や土地などは押しやられてしまった。新古典派経済学者たちは、経済成長がなければ、貧困問題への解決策は再分配しかなく、人口過剰に対する解決策は人口抑制しかなく、環境の修復のためには消費を減らすしかないと考える。経済成長のイデオロギーは、国家の力と栄誉の基盤であり、経済成長が続けば誰も犠牲にすることなく、すべての人が繁栄でき、再分配をしなくても済む。経済成長が続くと信じるのは、その方がややこしい問題に立ち向かうよりも楽だからに過ぎない。経済は生物物理システムの中にあり、物質に依存しており、熱力学の法則が存在していることから、経済成長が長期的に続くことはあり得ない。

定常経済とは、一定の人口と一定の人工物のストックを持つ経済。より良いモノやサービスを求めることには変わりがなく、物質やエネルギーの投入量が一定になるので、技術の進歩が質の向上を生み出す源泉になる。定常経済における競争力の源泉は、より少ない自然資本で質の高いモノやサービスを生み出す能力となる。また、労働生産性よりも資源生産性を重視することになる。より重要になるメインテナンスや修理は、労働集約的な産業であり、海外移転もしにくいので、多くの雇用を提供できる。成長は量的な拡大であるのに対して、スループットあたりの経済維持力を改善し、暮らしを向上させることは発展になる。自然資本の維持のためには、キャップ・アンド・トレードのシステムが最も良い。税制の基盤を現在の労働と資本から、自然から取り出す資源と自然に戻す廃棄物にシフトする。

今や、経済成長のための費用の方が便益よりも大きくなっており、幸福ももたらしておらず、資源の枯渇や汚染を増大させているだけであると指摘は重大だが、感覚的にもその通りのように思える。人々も、資本主義の論理や競争原理、所得の金額、モノの所有や消費といったものに踊らされているのが実態なのではないだろうか。物質やエネルギーの投入量を一定にして、技術の進歩によって発展をもたらす考え方には賛成できるし、資源の枯渇や環境の制約によって否が応もなくその方向に進んでいくだろう。しかし、そのれは、資源に乏しく技術によって発展してきた日本人には得意な方向だから、率先して進める有利な立場にあるのではないだろうか。税制を資源と廃棄物を基盤としてものに変えるのは大きな改革だが、生きている間は大地を借りて、死ぬときには返すという先住民族などの考え方にも似ているように思う。本来のあるべき人間の生き方と言えるのではないだろうか。

「定常経済」は可能だ!「定常経済」は可能だ!
ハーマン・デイリー / 岩波書店 (2014-11-06)
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2018年10月02日

ヒトのバイオマス量は野生哺乳動物の合計よりも大きい

日経サイエンス2018年11月号に、生物グループ別のバイオマス量を比較したグラフィック記事があった。

生物グループ別のバイオマス量s.jpg


植物が全生物の8割を占め圧倒的なのは、一次生産者だから当然と言えるだろう。しかし、地球で広大な面積を占める海洋生物よりも土壌中生物のバイオマス量の方が大きいことには驚く。生物は歴史の大部分を海の中だけで生息してきたが、上陸することによって大きく発展したのだなと改めて思う。

陸上生物の中では、多様性でも圧倒的に大きい節足動物がバイオマスでも最大。次に大きいのは環形動物だが、ミミズなどの土壌中生物が多くを占めているからだろうか。驚くのは、ヒトのバイオマス量は野生哺乳動物の合計よりも大きいこと。さらに、家畜のバイオマス量の方がヒトよりも大きいらしい。ニワトリだけでも野生鳥類の合計の3倍にもなるという。ヒトは農業によって自活しているとはいえ、このアンバランスさには改めて考えさせられる。

地球の一次生産量における人間の占有率の記事では、人間の活動が始まる前に比べて、他の生物の取り分は3割前後減っていると書いたが、この記事では、人間の活動によって、植物は半減し、野生哺乳動物は6分の1に減ったと推定している。数字の違いは、生物グループによって人間の活動の影響の受けやすさが違うこともあるのだろう。
タグ:生物多様性
小浜崇宏 | Comment(0) | 生態系 | このブログの読者になる
2018年09月05日

『熱帯雨林コネクション』ルーカス・シュトラウマン

著者は、ブルーノ・マンサー基金のエグゼクティブ・ディレクター。タイブとその一族が、サラワク州内で犯罪に手を染めているだけでなく、その資産を海外に送るためにマネーロンダリングなどの罪を犯していると主張する。

サラワク川周辺地域は、かつてブルネイのスルタンの領地だった。イギリス人のジェームズ・ブルックは1839年、ボルネオにイギリス貿易ネットワークの拠点を築くためにクチンに上陸し、ブルネイ王に歯向かうイバン人の鎮圧に手を貸して領有権を得ると、その後も領地を拡大していった。ジェームズは、地元の習慣や伝統をできる限り尊重する形で統治し、二代目のチャールズも他の植民地で行われた帝国主義的な搾取に反対し、先住民族を優遇する姿勢を示した。1941年に憲法が制定され、日本軍の侵略を経た1945年にイギリスの植民地となった後、1963年に建国されたマレーシアの一部となった。

タイブはシェルで働く大工の長男として生まれ、イギリス植民地政府の役人をしていた叔父ラーマンの援助を受けて進学した。ラーマンは、サラワクがマレーシア連邦に加わる際の初代州首相に立候補したが敗れたため、辞職するイギリス人知事からの州議会議員の指名リストにタイブを加え、タイブは初代内閣に入閣した。その後、タイブは農業・森林大臣の座をつかみ、サラワクの伐採ライセンスを取り仕切ることになった。FAOがサラワクの木材資源の長期利用について勧告を行うと、タイブは華人政治家が所有する伐採ライセンスを凍結して、再発行のための賄賂を手にした。タイブは、1968年にイバン人政治家たちの批判を受けて内閣を追われた後、連邦政府で13年間様々な大臣を歴任した。1970年からサラワク州首相の座に就いていたラーマンが心臓発作で倒れると、タイブがサラワクに呼び戻され、1981年に州首相の座に就いた。

サラワクの木材生産量は、1965年には230万m3だった。1972年にFAOは、サラワクの年間の伐採量を440万m3に制限することを勧告したが、ラーマンが州首相に就いた1970年から81年までの間に、470万m3から880万m3に増加し、タイブが州首相に就いた2年後には、1100万m3になった。ITTOは1989年に伐採許容量を920万m3と勧告したが、1991年の伐採量は1940万m3に達した。タイブが州首相に就任してから、一族や政治仲間は160万haの伐採権を取得し、ラーマンの支持者には125万m3が与えられた。合計した伐採権の価値は、200億ドルと見積もられる。タイブは、州営企業CMSに一族の企業を株式スワップによる買収をさせることによって、一族をCMSの大株主にし、弟のオンが会長に、息子のアブ・ベキルとスライマンは取締役となって、セメント製造、製鉄、株式取引、イスラム系銀行の4部門を独占した。

サラワクがホワイト・ラジャやイギリスに統治されていた時代は、プナン人のテリトリー全体は原生林に覆われていた。プナン人の1950年代初頭の人口は2650人と見積もられ、その3分の1の西プナン人は村に定住するようになっていた。1986年に伐採企業のブルドーザーが共有地にやってきた。プナン人たちは慣習法上の権利を奪われ、独自の文化を破壊された。貧困と病気がもたらされ、先祖伝来の土地を奪われた。21世紀の初めに最後のノマドたちも定住し、イネやキャッサバを栽培し始めた。

木材として伐採可能な森の90%は切り倒され、熱帯雨林に覆われていた大地はオイルパーム・プランテーションになった。森に暮らす民族は貧しくなり、暮らしは惨憺たる有様になった一方、町には有力政治家や木材王たちの豪邸が建てられた。1970年から1999年の間に、サラワクとサバで木材による収入の250億ドル以上が木材業者、州の上層部、クライアントに着服されたと見積もられている。タイブの次男スライマンは、2〜3週間に新車を買っていた。ミリ南部のルアク湾沿いの道は「億万長者街道」と呼ばれ、サラワクの木材王たちの財力を誇示するような宮殿が並んでいる。

タイブ政権で栄えたサラワクの木材王たちは、世界中で合法・非合法の森林破壊に関与している。パプアニューギニアからの木材輸出の80%以上はマレーシア企業が手がけている。世界銀行の試算によると、パプアニューギニアで伐採された木材の70%は違法伐採によるものだった。パプアニューギニア国家裁判所は、リンブナン・ヒジャウに対して、伐採によって被害を受けた先住民族への補償金として9700万ドルを支払うことを命じた。リンブナン・ヒジャウは、赤道ギニアの独裁者の息子で森林大臣に、伐採した木材1m3につき3万CFAフランの賄賂を渡し、国立公園での伐採を行った。リンブナン・ヒジャウは、ガボンでも森林面積の17%にあたる169万haの伐採権を獲得している。

サムリンがガイアナで取得した伐採権は160万ha以上とマレーシアよりも広く、さらに別の会社が伐採権を持つ40万haで違法伐採を行っている。サムリンは、ガイアナでビジネスを始めて以来、法人税を全く払っておらず、非課税燃料などの優遇措置を受けている。木材のほとんどは、中国やインドに輸出されている。サムリンは、カンボジアでも軍や国境警察から違法に木材を購入したり、動物保護区で違法伐採を行った。カンボジア政府は同社の木材伐採を一時禁止する措置をとったが、命令を無視して伐採を続けたため、カンボジアを追放された。タ・アンは、オーストラリアのタスマニアに進出してユーカリからベニアを製造する工場をつくった。操業開始から赤字申告を続ける一方で、州政府から4500万ドルの補助金を受けている。

リンブナン・ヒジャウは、世界で800万から1000万haの伐採権とプランテーションの権利を持つ。他のサラワクの企業4社(サムリン、シン・ヤン、WTK、タ・アン)が持つ伐採・プランテーション権の合計は、1800万haと推測されている。フォーブスによると、リンブナン・ヒジャウ会長は15億ドル、サムリン創設者とその息子は8億6500万ドル、タ・アン会長は1億7500万ドルの資産を持つとされているが、どれも公開されたものでしかない。タイブは、少なくとも150億ドルの資産を持つと推測されている。

2010年には、タイブが1999年以降に自分の家族や仲間に対して、150万haの州有地を分配したリストが暴露された。2014年、タイブはサラワク州首相を辞任し、州知事になった。タイブが本当に権力を譲ったのか、陰で糸を引き続けているのかは、今後も注視していかなくてはならない。

熱帯雨林コネクション: マレーシア木材マフィアを追って熱帯雨林コネクション: マレーシア木材マフィアを追って
ルーカス シュトラウマン / 緑風出版 (2017-10-20)