2018年03月10日

『イルカ漁は残酷か』伴野準一 平凡社新書

イルカ漁は伊豆の川奈・富戸や壱岐でも行われていたこと、現在でも捕獲数は岩手の方が多いこと、太地町のイルカ追い込み漁はクジラ博物館のために1969年から始まったことなど、歴史が幅広くまとめられている。著者も反捕鯨活動に批判的であることを隠していないが、イルカの屠殺が残酷であることも認めている。どちらに偏ることもなく、まとめられている印象だった。

小型鯨類の捕獲頭数は岩手県が最も多いが、すべて船に並走して近寄ってくるイルカを手銛で突き捕る突き棒漁。和歌山県は大きく離された万年の2位。

太地町では古くから古式捕鯨が行われており、1606年に突き捕りの捕鯨が行われたのが発祥とされている。1675年には、船の間に張った網に別の船がクジラを追い込み、銛を投げつけてからクジラに乗り移って止めを刺す網取り式捕鯨法が行われるようになった。1900年に地元資本の捕鯨会社が設立されて、アメリカ式のボンブランス破裂銛を用いた捕鯨を開始。1905年には東洋漁業株式会社、1906年には帝国水産株式会社が太地を基地として捕鯨を開始した。両社は1909年に合併したが(後の日本水産のルーツのひとつになる)、同年に大東漁業株式会社が操業を開始し、両社は船首に捕鯨砲を装備するノルウェー式捕鯨を始めた。

太地町ではゴンドウなどの小型鯨類の漁が盛んで、港内に追い込んで捕獲することもあった。1933年にミンククジラの捕獲に成功すると、全国各地で操業するようになる。終戦直後には資源量が増えていたためによく捕れたが、やがてゴンドウの捕獲量が急激に落ち、1948年には小型捕鯨船によるミンククジラ以外のヒゲクジラとマッコウクジラの捕獲が禁じられた。南極海捕鯨は1934年に始まり、1946年に再開されると、太地町出身者が乗り込むようになった。

捕鯨船を下りて町に戻る漁師が目立ち始めた1964年、町長の庄司五郎は太地を観光の町に変える計画を立て、クジラの飼育展示と捕鯨資料館をその目玉に据えた。すでにアメリカの各地、国内でも江の島でイルカショーが行われていた。プールで飼育するためのイルカとゴンドウの追い込み捕獲は1969年に始まった。木造船にディーゼル発動機を積んでも時速20kmだが、バンドウイルカは時速40km以上で泳ぐ。1970年からFRP船を使い始め、同じ頃からイルカショーを見せる水族館が全国的に増えて、バンドウイルカの需要が増えた。1970年に串本沖でバンドウイルカの網取りに成功し、1975年には追い込み捕獲に成功した。

壱岐島沖の七里が曽根と呼ばれる天然礁では、1930年からサンマなどを餌にしたブリ漁が行われていたが、かかったブリをイルカに食われる被害を受けていた。1956年から様々な方法でイルカの駆除を始めるが、成果を上げられなかった。1976年に太地町の支援を受けて初めて追い込みに成功したが、翌年には、放血処理によって入江が真っ赤に染まった様子が報道され、海外まで配信されたため、世界中から抗議の声が上がった。

東日本の水族館にイルカを供給していた川奈・富戸では、1978年を最後に1頭も捕れない年が続いていた。一方、太地では水族館への販路が拡大したことを背景に、バンドウイルカの捕獲数は1980年に412頭に達した。1983年に追い込み漁は県知事許可漁業となり、1993年には、それまで自主規制だった捕獲頭数が捕獲枠となって規制されるようになった。1988年に商業捕鯨がモラトリアムに入ると、イルカやゴンドウの肉が急騰したが、長くは続かなかった。

2009年、アメリカでザ・コーヴが上映されると世界から非難を浴びるようになり、反捕鯨団体やイルカ活動家が太地に押し寄せるようになった。2011年には、NHKスペシャル「鯨と生きる」で、鯨漁師の苦悩と活動家のハラスメントの実態を放映している。和歌山県警も、2011年から追い込み漁が行われる畠尻湾近くに臨時交番を設置し、活動家を監視するようになった。

動物園では野生動物を捕獲して飼育展示することはなくなってきている。2005年から2013年までの生体イルカの捕獲頭数は1108頭だった。2014-15年期より、WAZAの提案に応じて生体捕獲と漁を分離するようになった。バンドウイルカを生体として販売すると1頭40万から70万円になるが、食肉としては1万円前後(2013-14年期)。屠殺は止めて水族館への生体販売だけにする議論も起きているが、それでも反対運動は止まらないと予想され、水産庁も水産業でなくなるとの理由で、生体捕獲のみの操業は認可しない方針。バンドウイルカとコビレゴンドウの個体数の減少は激しく、このままでは熊野灘から姿を消す恐れがある。

<考察>
太地では捕鯨の歴史は長いものの、バンドウイルカの追い込みは1969年に始まったに過ぎず、地元住民の生活に必要な食肉としてではなく、観光目的だったことを考えると、これを古来の伝統と主張するのは無理があると思う。西洋の価値観の押しつけに対して、感情的に反発しているだけではないだろうか。日本人でも、湾が血で染まる景色に惨悽な感情を抱く人や、イルカを人間と心が通じる動物であると考える人は少なくないだろう。水族館については、長期的な計画で人工繁殖の努力を進めることを期待するしかないだろう。一方で、あらゆる捕鯨に反対する西洋的な考え方にも、どのような動物を捕獲の対象外とするかの国際的な合意がないという意味でも、独善的であるとの感想を抱かざるを得ない。ただ、少なくともバンドウイルカとコビレゴンドウの個体数の減少が激しい現状からは、種の保全や持続可能な利用の観点の厳しい規制が必要だと思う。それこそ、持続可能でなければ「伝統」であるはずがないし、伊豆のように捕獲できなくなれば、収奪的なものだったことを明らかにすることになる。

イルカ漁は残酷かイルカ漁は残酷か
伴野準一 / 平凡社 (2015-08-13)
小浜崇宏 | Comment(0) | 生態系 | このブログの読者になる
2018年02月02日

地球の一次生産量における人間の占有率

70億人にも増えた人間は、世界の植物生産のどれくらいを占有しているのか?
人間の活動が始まる前に比べて、他の生物の取り分はどれくらい減っているのか?

日本語の文献ではよく分からなかったので、原著の論文にあたってみた。

よく引用される論文
Vitousek et al. "Human Appropriation of the Products of Photosynthes" (1986)
では、海洋も対象にしているが、陸上のみの推定値を引用する。
人間と家畜によって消費される量:3.2%
人間が支配する生態系の生産量:30.7%
本来の植生からの減少量を合計:38.8%

論文の見出しには、「本来の陸上の純一次生産の40%近くが人間の活動によって直接消費されたか利用されているか失われた」とあるので、3番目の推定値を結論としているようだ。

次に、
Haber et al. "Quantifying and mapping the human appropriation of net primary production in earth's terrestrial ecosystems" (2007)
の推定値は、
人間の収穫:12.5%
人間が起こす火(野焼きや焼畑)によって失われる量:1.7%
人間が変えることによって失われた生産量を合計:23.8%

Vitousekらの結果とだいぶ異なるが、この論文ではVitousekらの定義に従った比較も掲載しており、同じ定義に従えば範囲内に収まるため、結果が異なるのは定義の相違によるものとしている。

また、Haberらの論文で言及している
Imhoff et al. "Global patterns in human consumption of net primary production" (2004)
では、3つの推定値を掲載している。
低い推定値:14.1%
中間推定値:20.3%
高い推定値:26.1%

以上の論文の中で引用されているものの私が入手できなかった他の論文の数字も含めてまとめてみる。現在の一次生産量に対する人間の占有率は16〜32%とばらつきが大きいが、強引に平均すると24%となる

現在の一次生産量
NPP
人間の占有量
HANPP
%HANPP
Vitousekら(1986) 132.1 40.6 31%
Wright (1990) 19%
Rojstaczerら (2001) 32%
Imhoffら(2004) 中間推定値 56.8 11.54 20%
Haberら(2007) 59.22 9.32 16%
平均 24%
※Vitousekらはバイオマス量、他は炭素量で、いずれも単位は10億トン。

さらに、本来の一次生産量からの減少分を加えた推定値は23〜39%で、平均すると29%となる。すなわち、他の生物の取り分は、人間の活動が始まる前に比べて3割前後減っていると言えそうだ。

本来の一次生産量
NPP0
人間の占有量
HANPP
一次生産量の減少
ΔNPP
%total
Vitousekら(1986) 149.6 40.6 17.5 39%
Wright (1990) 23%
Haberら(2007) 65.51 9.32 6.29 24%
平均 29%

小浜崇宏 | Comment(0) | 生態系 | このブログの読者になる
2017年02月09日

インドネシアの煙害によって10万人が死亡した可能性

インドネシアでは毎年のように煙害が発生しているが、ハーバード大学とコロンビア大学の研究によると、2015年にはその有害物質によって10万人もの死者を出した可能性があるらしい。煙害の原因は、主にアブラヤシ開発などのための火入れ。無論、森林減少やCO2排出(火入れだけでドイツ全体の排出量に相当)も引き起こしている。現地政府も取り締まりを行っているが、調査官が捕らえられてしまったこともあるという。

パーム油は、スナック菓子やインスタント麺、チョコレート、アイスクリーム、ファーストフードや惣菜の揚げ油など、実に様々な加工食品などに利用されるが、一般消費者はそれらの消費を控えるくらいのことしかできない。各メーカーによる認証制度の利用などの取り組みに期待するしかない。

情報源:
100,000 may have died but there is still no justice over Indonesian air pollution

参考:
あぶない油の話〜パーム油のことを知るサイト〜 | - プランテーション・ウォッチ
パーム油ってなに? | 特定非営利活動法人 ボルネオ保全トラスト・ジャパン
2015年07月23日

「名作の中の地球環境史」石弘之

環境問題が描かれている文学作品を紹介して、その背景や関連する情報を解説している。環境問題は決して現代に始まったものではなく、歴史的に繰り返されているものが多いことがわかるし、その根本的な解決策を考えるのに役立つだろう。

「駱駝祥子」老舎
BC9〜8世紀、黄土高原の半分は森林に覆われていた。10世紀、山西省では大森林が残されていた。1世紀頃から乱伐の土壌浸食によって黄土高原は拡大した。秦に滅ぼされた楚では、始皇帝によって広大な森林が丸裸にされた(森と緑の中国史)。華北は漢の時期までは大森林だったが、武帝の時代に起こった製鉄によって大量の森林が失われた(時代の風音)。

「ブラン」イプセン
18世紀末に開発されたルブラン法によるソーダ生産は木灰を原料にしたため、北米、ロシア、スカンジナビアの森林破壊をもたらした。1861年に食塩を用いるソルベー法が開発されて生産が拡大したが、副産物として発生する塩酸によって工場付近に酸性雨を降らせた。

「白鯨」ハーマン・メルヴィル
捕鯨は11世紀にバスク人が始めた。15世紀にポルトガルやイギリスの沖合、16世紀半ばに北米大西洋岸に進出。16世紀末にオランダやイギリスがスピッツベルゲン諸島周辺でホッキョククジラを捕獲し、事実上絶滅した。17世紀半ばに北米東岸の沿岸捕鯨が始まり、18〜19世紀には大型の帆走船を母船にした米国式捕鯨が盛んになった。
19世紀半ばにペンシルベニア州で油田が発見され、1848年以降のカリフォルニア州のゴールドラッシュで乗組員が移動したため、捕鯨は衰退した。1864年にロープ付きの銛を用いるノルウェー式が開発されて、ナガスクジラ科が対象となり、20世紀初頭に鯨油の硬化技術によって石鹸やマーガリンの原料として需要が拡大した。

「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー
江戸時代のナタネ栽培の中心は大阪。ナタネ油の絞り粕は木綿の栽培に最適で、河内木綿として全国に売られた。

「大学或問」熊沢蕃山
熊沢蕃山の思想は、荻生徂徠、頼山陽、横井小楠、佐久間象山らに影響を与え、幕末には吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛、橋本佐内らの背景にもなった。室田武は蕃山をエコロジーの父と位置付けた。
3回の森林消失期:
6世紀末〜9世紀半ば:水田稲作に伴う農地転換、寺院などの建造
16世紀末〜17世紀半ば:城建築ブーム
17世紀後半:燃材や堆肥などが利用されつくしたため、集落が共同で管理する入会地が始まった
第二次大戦〜戦後復興期
アカマツは縄文時代には瀬戸内海沿岸に限られていた。鉄や塩の生産のため、森林伐採が進んでいたため。鎌倉時代以降に全国に拡大し、江戸中期には人里周辺のほとんどが、明治以降は全国的にアカマツだらけになった。

「アク・アク」トール・ヘイエルダール
サツマイモはポリネシア人が南米から持ち帰り、ニワトリは南米に持ち込まれた。石器や釣り針も交換されていたという説が有力。太平洋には住居跡の残る無人島が十数島ある。ピトケアン島は、イギリス人船員が逃げ込む前に段々畑が作られていた。

「ロビン・フッドのゆかいな冒険」ハワード・パイル
イギリスはBC1700〜500年の青銅器時代に森林の開発が進み、BC800年代末の鉄器と馬を伴ったケルト族の到来によって開墾が加速した。1〜4世紀のローマ支配の間に人口は2倍になり、国土の77%を覆っていた森林は15%に減った。牧畜や狩猟が盛んになるとともに、13世紀にオオカミの根絶が命令され、15世紀にはイングランドから根絶された。オオカミがいなくなるとアカシカが増えて森林が再生しなくなり、牧場が広がることで森林が失われた。1066年にイギリスを征服したノルマン人のウィリアム王は、広大な森林を御猟林に指定し、ジョン王が対フランス戦争に負けたのを機に貴族が反発してマグナ・カルタを認めさせた。マグナ・カルタの条項のいくつかは森林と関係が深く、forest charter(森林勅許状)も王に署名させた。16世紀にフランスやオランダとの緊張状態から武器が輸入できなくなったため、ナラの森が生い茂っていた南部のサセックス地方に製鉄業が興され、森林が消えていった。
造船に必要な木材のために、ニューイングランド、カナダに頼り、ベリーズはマホガニーを求める業者によって建設され、ビルマも植民地にされた。北海道のミズナラも家具や樽材として輸出された。

「クリティアス」プラトン
人類が進出する前のギリシャは、84%が森林だった。BC6世紀、戦争が続いたために造船用木材の伐採が急増し、森林は壊滅した。

「街道をゆく7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち」司馬遼太郎
フランスでは、13世紀だけで開墾によって森林の3分の1を失った。
律令時代、鉄製の鋤・鍬は国衙や郡衙だけが所有した。中世の貴族は鉄の所有権を通して遠隔地にある荘園を管理した(この国のかたち5)。11世紀頃から鉄の生産量が増えて価格が下がり、個人が鉄製農具を持つことができるようになると、農民は新たに開墾した田畑に対して所有権を主張できるようになり、鉄器で武装した武士も誕生した。

「ギルガメシュ叙事詩」
メソポタミアでは、レバノンスギは灌漑用の運河や用水路の護岸のため、神殿などの梁材、船材、燃材としても使われた。
569年にランゴバルト族がイタリアに侵入したとき、河口の低湿地帯に逃げて住み着いたのがベネツィアの始まり。海底に打ち込むための木杭に樹脂が多く腐食しにくいレバノンスギが使われた。

名作の中の地球環境史名作の中の地球環境史
石 弘之 / 岩波書店 (2011-03-24)
タグ:環境史
小浜崇宏 | Comment(0) | 地球環境 | このブログの読者になる
2014年12月29日

「世界の森林破壊を追う」石弘之 朝日選書

各国の森林に関する歴史や現状がまとめられていて、世界の森林問題の概観をつかむことができる。

中国では、唐代になると山東半島と四川省以外の森林はおおかた消えた。四川省も森林でおおわれているのは、現在では13%のみ。長江流域全体で過去30年間に森林の85%が失われた。洞庭湖には、いくつもの堤防がつくられ、その内側が埋め立てられて新田が造成されたため、湖の面積は100年前の3分の1になってしまった。古代には始皇帝の宮殿や兵馬俑のために、明代には万里の長城を山の稜線に沿って築いたために、現代では毛沢東の大躍進政策で鉄鋼の大増産のために、大量の木材が消費された。

インドのタール砂漠一帯では、5000年前頃から湿潤化が進んで森林が広がった。麦作などの農業も盛んになり、4600年前から3800年前にかけて、ハラッパー、モヘンジョ・ダロの古代都市が最盛期を迎えた。4000年前頃から環境変動による大洪水や川の流路の変化、塩害によって文明は崩壊した。インドの森林は19世紀に大きく変貌した。1853年に鉄道敷設が始まり、橋の建設、枕木、燃料としての薪のために膨大な木材が消費された。茶は17世紀半ばにイギリスに伝わったが、1840年頃から中産階級の間でアフタヌーン・ティーの習慣が広がって消費量が急増した。茶の栽培はアッサム地方、セイロン島、インド南部に広がり、丘陵地の森林が伐採された。1864年に森林局が設置されて保安林が指定され、後に森林法も公布されたが、イギリス植民地時代の初期には国土の66%が覆われていた森林は独立直後には40%に減少し、2001年には21%になっている。1990〜98年の洪水、干ばつなどの自然災害による死者は年平均5536人で世界1位。

ケニアでは、干ばつに強い土着の雑穀から水不足に弱いトウモロコシが主食になったため、干ばつの度に食糧危機は深刻になっていった。

アメリカでは、19世紀の初期の工業化の時代はエネルギーを大量に利用できた木材に頼っていたが、1880年代半ばから木材が不足し始めてから石炭が増え始め、1910年には全エネルギーの4分の3を占めるまでになった。ルーズベルト大統領は、自然資源の合理的管理するための保護政策を進めて、ピンショーを自然保護担当長官に任命し、53か所の野生生物保護区、16か所の国定記念物、5か所の国立公園を創設した。シエラ・クラブを創設したジョン・ミューアは、ヨセミテ渓谷の国立公園指定を獲得し、1891年の森林保存法によって国有保護林が設定されることになった。1964年には、木材生産と野生生物保護の対立を調整するために原生自然法が制定され、原生自然保全地域が指定されることになった。

ブラジルでは、1530年代にアゾレス諸島からサトウキビが伝えられて砂糖の生産が始まった。プランテーションの造成と、搾った原液を煮詰めるために大量の木材が燃料にされたため、16世紀半ばまでに海岸部の森林はあらかた消えた。1840年頃からはゴム生産が始まり、1876年に栽培化に成功してプランテーションが広がってベレンやマナウスが繁栄したが、セイロンやマラヤでプランテーションが始まると凋落していった。第二次大戦後はアマゾンで肉牛の牧場造成が広がり、現在も飼育頭数、牛肉生産でともに世界2位。

オーストラリアのクイーンズランド州北東部では、1870年代からサトウキビの栽培が始まり、その他の開発も伴って、本来の熱帯林の75%が失われた。国全体では、1860年以降の農地開発によって森林面積の3分の2が失われた。国外から持ち込まれた家畜が野生化して問題を起こしている例が多い。ヒトコブラクダは牧草を食い荒らし、アナウサギも作物や牧草を荒らしたり地下の巣穴に家畜が落ちる事故も起こしている。

シベリアの森林では、林床のミズゴケや地衣類の層が断熱材として働き、春にツンドラが融けるのを妨げて樹木の生育を遅らせる。山火事が起きてこの層が燃えてしまうと、地温が上がって発芽や生長に好適な環境に変わり森林は回復する。タイガの寒帯林地域の地下の根や有機物が蓄える炭素の量は、地球全体の森林や土壌中に蓄えられている炭素の半分以上を占める。

ドイツでは、1980年代から酸性雨による森林枯死が始まった。原因は土壌中の窒素分などの栄養条件の変化によるものという結論になっている。

イギリスでは、ローマ人による支配の時代に農地開発、建築用木材、製塩、採鉱、製鉄、レンガ生産のための燃料のために広大な森林が伐り開かれ、国土の77%を覆っていた森林は15%に減少した。

UNEPが定義した、一人あたりの森林面積が0.1ha以下の希少森林国は40カ国あり、そこに17億人以上が住んでいる。森林破壊の最大の原因は農業や畜産のための開墾で、第2の原因は木材生産のための伐採。紙の原料は19世紀に入るまで麻や綿のボロ布だったが、19席半ばに木からパルプをつくる技術が開発されて大量生産されるようになった。

世界の森林破壊を追う―緑と人の歴史と未来世界の森林破壊を追う―緑と人の歴史と未来
石 弘之 / 朝日新聞社 (2003-04)
タグ:森林