私たちの世界は、「空いている世界」から「いっぱいの世界」に変わった。「空いている世界」の制約要因は人工資本だったが、「いっぱいの世界」の制約要因は残っている自然資本になる。漁業では、かつての制約要因は漁船だったが、今では海の中の魚の数とその再生能力になっている。原油生産では、かつての制約要因は掘削装置と汲み上げポンプだったが、今では地下に残る原油量やCO2を吸収する大気の能力になっている。
今では、環境問題を含む経済の成長のための費用の方が、生み出される便益よりも大きくなっている。財やサービスを新たに1単位生産するのに必要な費用である限界費用は、GDPが成長するごとに増加するが、1単位生産することによって得られる限界便益は減少する。その理由は、社会は最も切迫したニーズから満たしていき、最も利用しやすい資源から用いるが、次第にニーズの低いものを対象とし、利用しにくくコストの高い資源を利用することになるため。GDPの中身を費用と便益に分けて、環境汚染の経済的な損失を考慮に入れた持続可能経済福祉指標(ISEW)や、それに人の幸福に影響を与える項目を加えた真の進歩指標(GPI)は、アメリカや他の先進国では1980年頃から横ばいになっている。また、様々な研究において、一人当たりのGDPが年間2万ドルになると自己評価による幸福度の上昇が止まることが示されている。充足ラインまでは実質所得が幸福度の重要要因だが、所得が高い国々では、人間関係や社会の安定性、信頼、公正などが幸福の決定要因となる。すなわち、GDPの成長は幸福度を増やさない一方で、枯渇、汚染、ストレスなどのコストを増大させている。
アダム・スミス、J.S.ミル、J.M.ケインズといった古典派経済学者たちは、労働や土地によって価値が決まるという客観的価値論をとり、将来は定常経済に向かっていくと考えていた。1870年代に新古典派経済学が台頭して、効用や満足をどう感じるかによって価値が決まるという主観的価値論をとるようになり、資源や土地などは押しやられてしまった。新古典派経済学者たちは、経済成長がなければ、貧困問題への解決策は再分配しかなく、人口過剰に対する解決策は人口抑制しかなく、環境の修復のためには消費を減らすしかないと考える。経済成長のイデオロギーは、国家の力と栄誉の基盤であり、経済成長が続けば誰も犠牲にすることなく、すべての人が繁栄でき、再分配をしなくても済む。経済成長が続くと信じるのは、その方がややこしい問題に立ち向かうよりも楽だからに過ぎない。経済は生物物理システムの中にあり、物質に依存しており、熱力学の法則が存在していることから、経済成長が長期的に続くことはあり得ない。
定常経済とは、一定の人口と一定の人工物のストックを持つ経済。より良いモノやサービスを求めることには変わりがなく、物質やエネルギーの投入量が一定になるので、技術の進歩が質の向上を生み出す源泉になる。定常経済における競争力の源泉は、より少ない自然資本で質の高いモノやサービスを生み出す能力となる。また、労働生産性よりも資源生産性を重視することになる。より重要になるメインテナンスや修理は、労働集約的な産業であり、海外移転もしにくいので、多くの雇用を提供できる。成長は量的な拡大であるのに対して、スループットあたりの経済維持力を改善し、暮らしを向上させることは発展になる。自然資本の維持のためには、キャップ・アンド・トレードのシステムが最も良い。税制の基盤を現在の労働と資本から、自然から取り出す資源と自然に戻す廃棄物にシフトする。
今や、経済成長のための費用の方が便益よりも大きくなっており、幸福ももたらしておらず、資源の枯渇や汚染を増大させているだけであると指摘は重大だが、感覚的にもその通りのように思える。人々も、資本主義の論理や競争原理、所得の金額、モノの所有や消費といったものに踊らされているのが実態なのではないだろうか。物質やエネルギーの投入量を一定にして、技術の進歩によって発展をもたらす考え方には賛成できるし、資源の枯渇や環境の制約によって否が応もなくその方向に進んでいくだろう。しかし、そのれは、資源に乏しく技術によって発展してきた日本人には得意な方向だから、率先して進める有利な立場にあるのではないだろうか。税制を資源と廃棄物を基盤としてものに変えるのは大きな改革だが、生きている間は大地を借りて、死ぬときには返すという先住民族などの考え方にも似ているように思う。本来のあるべき人間の生き方と言えるのではないだろうか。
「定常経済」は可能だ!
ハーマン・デイリー / 岩波書店 (2014-11-06)